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アメブロからお引っ越し。社会人1年生の徒然日記。

「君の名は。」を観て、少しだけ出た涙のわけは。

君の名は。」を見て、少しだけ泣いて、この涙は何の涙だろうと考えた。

 

正直、三葉と瀧くんが想い合う気持ちには感情移入できなかった。だって、自分だったら、いっしょに過ごしたわけでもなく、中身を入れ替わっただけの異性に、恋できないもん。

だから大泣きするわけではなかったけれど、なぜか心当たりのある切なさが胸を締め付けて、少しだけ涙が出たのだった。

 

なんなんだ、この既視感のある胸の痛みは。

エンドロールを見ながら考えを巡らせて、思い当たったことがある。

 

あべのハルカス、のぼったことある?」

「何言うてんねん、まいちゃんいっしょに行ったやろ」

「え?そうだっけ...」

このまえ帰省したときの会話。

祖父といっしょにあべのハルカスに登ったことを、たった3年前のことなのにわたしはすっかり忘れてしまっていて、そのとき食べたものとか話した内容とか、たしかにあったはずのものが他の記憶で上書きされてなくなってしまっていることに気づいて、切なくなった。反動で、今回の帰省で行った場所やおじいちゃんと話したことをスマホにメモしたけれど、すべてをメモすることなんて、そもそもできやしない。

 

そんなの、ずっと前から気づいていたことだ。

 

小学生のときから、日記をつけていた。書けずに寝てしまった日はあとから思い出せることを書いて、必死に空白を埋めていた。書かないとなかったことになってしまうみたいで、どんどん大事なものが流れて行ってしまうみたいで、白紙のページがあるのがこわかった。

中学生のときその気持ちがますます強くなって、宿題をほっぽって、手が痛くなるまで日記を書いたり、読んだ本の感想を書いたりしていたっけ。

 

書いているときは、「ずっと覚えていよう」と思うのだ。

でも、あとから見返したとき、記憶の輪郭はぼやぼやになっていて、他の記憶と混ざり合ったりところどころ途切れたりしている。ましてや書き残していないものについては、無意識のうちになかったことにされている思い出や人だってたくさんあるんだろう。

 

それがこわくてかなしくて仕方なかったけど、ある日「人間はどんどん忘れていくけど、そういうものだ。忘れていてもどこかでその人の一部になっているし、本当に大事なものは残っていく。」ということばに出会って、少し落ち着いた。(誰のことばだったかは忘れてしまった、たぶん何かの小説の台詞だと思うんだけど。)

 

それからというもの、日記は無理のない範囲でつけるようになり、記憶がぼやけていくことを当たり前のものとして少しずつ受け入れられるようになった。

…とはいえ、冒頭のあべのハルカスみたいなことがあると、またこわくなるんだけど。

 

結論、「君の名は。」を見て少しだけ出た涙は、きっと慣れたはずの恐怖と切なさを思い出して出た涙。記憶がぼやけていくことを異常に怖がっていた中学生のときに見たら、号泣していたんではないかと思う。

 

本当に大事なものはなんらかの形で自分のなかに残っている。当時の恐怖を和らげてくれたあのことばを肯定してくれるようなラストでよかった。

 

そして、昔のことを考えるときの『懐かしい』『寂しい』『不安』が混ざったようなあの例えようのない感情を、大事に抱えていたいような気持ちになったのでした。f:id:maimai-mango:20161029010936j:plain