「さとにきたらええやん」に見る、「しんどさ」が「やさしさ」に変わるとき
「さとにきたらええやん」は、大阪・釜ヶ崎で営まれている子どもの居場所・「こどもの里」を舞台にしたドキュメンタリー映画だ。
ドキュメンタリーというよりも、ホームビデオのような。
子どもたちがとにかく明るく強くのびのびしていて、
「どうやってこんなに距離感の近い、素のまんまの子どもたちを撮ったんだろう」
とすごくびっくりして監督の話を聞いてみると、5年も施設に通ったすえに撮影を始めたのだとか。それ、もう完全に施設のスタッフやん!(笑)
「素」の子どもたちの笑顔、葛藤、ころころ変わり続ける表情に、自分が会ってきた子どもたちが次々に重なって、映画を見ている100分間で何度泣き笑いしたかわからない。
“内部”の人じゃないと絶対に撮れない、子どもたちとの関係性が生み出した映画だったと思う。
釜ヶ崎は「貧困地区」として名を知られていて、実際、しんどさを抱えた大人や子どもたちが多く住んでいる。監督は釜ヶ崎に住む人たちのことを、こう表現する。
「みんな、様々なことを抱えながら生きているけど、互いが互いを想う気持ちの強さに圧倒される」
映画に登場する子どもたちも、貧しかったり障害があったり親御さんが病んでいたり、それぞれのしんどさがある。そして、家庭や学校になかなか見つけられない居場所を求めて、「こどもの里」にやってくる。
だからと言って子どもたちへの同情を誘うような映画かと思ったら大間違い、逆に見ている私たちを元気づけてくれる。しんどいなかで他人を思いやり、人とつながり、明るさとユーモアでつらさを跳ね返してしまう彼らの姿からたくさんのパワーをもらった。
痛みを知って人の痛みに敏感になり、
つらい経験を知ってそれを乗り越えるためのポジティブさを持つようになる。
…なんて強いんだろう。
ただし、しんどいときに受け入れてもらえる居場所がなかったら、彼らもそんなに強くはいられなかったかもしれない。
人には誰にでも、そのままでいていいよと受け入れられる場所(居場所)が必要で、それは一般的には家庭だけど、家庭がそうでない場合もたくさんある。子どもは大人のように自分で世界を広げていく力はなく、だからこそ「こどもの里」のような居場所はかけがえのない存在だ。
では、「こどもの里」のように、家庭以外が居場所になっていくために大切なことはなんだろうか。
「支えてくれる人がいる」っていうのはもちろん大切だけど、「自分が他の誰かを支えることができる」というのも、ものすごく重要な要素だ。与えてもらうだけの場所は、一時的に休まっても本当の意味での居場所にはならないのではないだろうか。
というのも、「こどもの里」では様々な年齢の子どもたちが集まって自然と互いに支えあっているのに加え、地域のホームレスの人たちに食べ物や防寒具を配る「子ども夜回り」という活動をしているのである。人の役に立つ喜びが、さらに子どもたちの心を満たしているように見えて、なんというか、思いやりは人をめぐりめぐっていくんだなあと思って涙が出てしまった。
世の中には悲しいことも苦しいことも多い。けれど、しんどさは、人との関係性・居場所によって「やさしさ」とか「強さ」にも変えていけるのだということを、さとの子どもたちが教えてくれた気がする。